<葛飾区教育資料館 法林寺 水元神社>
葛飾区教育資料館は大正14年に建てられた区立水元小学校の校舎を移築復元したもので、
大正時代のものとしては都内に残る唯一の木造校舎として区の文化財に指定されています。
館内の教室では大正時代の授業風景が再現されているほか、当時の教科書や学用品など
も展示されています。また、資料館の建物は昭和57年まで60年間にわたり校舎として使用さ
れたもので、展示品はもちろん、建物自体にも葛飾の教育の歴史が刻まれています。
平成17年4月より、教育資料館は葛飾区郷土と天文の博物館の一部門として運営されるこ
とになりました。
所在地 葛飾区水元4-21-1
交通手段
JR常磐線各駅停車・京成金町線「金町」下車、南口2番乗り場から京成バス
(金61・小56系統 戸ケ崎操車場行)「水元小学校」下車 徒歩1分 (水元医院の角を入ってすぐ)
旧教育資料館は、大正14(1925)年に建てられた水元尋常高等小学校の校舎を移築復元したもので、古い教育資料などを展示していましたが、耐震性などの問題から平成28年3月に公開を終了しました。平成28年8月に、1階の体験学習室をリニューアルし、展示スペースを設け、旧教育資料館が収蔵していました資料を「かつしか学びの玉手箱」として展示しています。
昭和17年4月18日、東京初空襲の際の機銃弾とその弾痕。水元国民学校の生徒が犠牲になった。
石出巳之助君の墓石がある。
昭和17年4月17日、ドーリットル指揮のB-25中型爆撃機の編隊16機は、
米空母「ホーネット」から発進し初の日本本土の空襲に向かった。
昭和17年4月18日、東京初空襲の際の機銃弾とその弾痕。水元国民学校の生徒が犠牲になった。
この日は土曜日で学校の授業は昼までだった。石出巳之助君(高等科一年生、13歳)は教室の
掃除を終え、友達と校門を出ると間もなく空襲警報が鳴った。巳之助君たちは急いで校舎に引き
返し、教室の机の下にもぐろうと廊下を走った。その時、B-25の機銃掃射が彼等を襲い、その
一弾が巳之助君の背中に命中した。駆けつけた人々によって応急措置を施され、2km離れた企
業の医務室に運ばれたが、午後二時に息を引き取った。
翌日の新聞は「鬼畜の敵、校庭を掃射。学童一名死亡」と大々的に報道し、教師は月曜日に登校
した児童に米軍の非道ぶりを話して聞かせた。
石出巳之助君の墓石に刻まれた戒名「悲運銃撃善士」。
東京だけで39人の死者が出たが、「損害は軽微なり」と発表された。
所在地 葛飾区西水元6丁目14−18
電話 03-3608-1905
この梵鐘は、旧小合村の領主、松浦河内守信正が龍蔵寺に奉納したもの。明治のはじめに廃寺となって鐘は村有となり、非常用の早鐘として用いられていた。今では区指定の文化財として、水元公園近くの水元さくら堤に保存されている。
住所
東京都葛飾区東金町5-5
営業時間
園内自由,年中無休
戦争協力にNO!葛飾ネットワーク
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